2019年1月22日火曜日

呪いをかけて誓った裏切るペテロを愛し切られ、選び抜かれたイエス・キリスト


「鶏が二度鳴く前に、
あなたは、わたしを知らないと三度言います」という
イエスのおことばを思い出した。
それに思い当たったとき、彼は泣き出した。
マルコの福音書1472

イエスが捕らえられたとき、
ペテロは、イエスのことが気になって
遠くからイエスのあとをつけながら、
大祭司の庭の中まではいって行きました。
そして、役人たちといっしょにすわって、
火にあたって様子を伺っていました。
すると、大祭司の女中のひとりが来て、
ペテロが火にあたっているのを見かけ、
彼をじっと見つめて
「あなたも、あのナザレ人、
 あのイエスといっしょにいましたね」と言いました。
ペテロはそれを打ち消して、
「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、
出口のほうへと出て行きました。
すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、
また、「この人はあの仲間です」と言いだしたのです。
しかし、ペテロは再び打ち消しました。
しばらくすると、
そばに立っていたその人たちが、
またペテロに
「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」というと、
彼はのろいをかけて誓い始め、
「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言ったのです。
するとすぐに、鶏が、二度目に鳴きました。
そこでペテロは、
「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」
というイエスのおことばを思い出し、
それに思い当たって、彼は泣き出しました。

ペテロは本当にイエスを愛していました。
しかし、恐れが彼を捕らえ、
イエスを知らないと呪いをかけて誓ってしまいました。
イエスが言われた通り、
鶏が二度泣く前に三度知らないと言ってしまいました。
彼は自分の弱さと情けなさに涙が出て止まりませんでした。
それはペテロだけではありません。
弟子たちは皆、逃げたのです。

ペテロは、私たちの代表です。
私たちは聖霊の助けがなければ、
恐れの前に、
どんなに愛していても裏切ってしまう弱い者なのです。

でも忘れないでください。
それでもイエスはべテロを愛しきられ、
最後まで選び抜いて、
そのペテロを通して、
初代エルサレム教会は建てあげられていったのです。

主イエスは、
同じようにあなたを愛し切られ、
選び抜かれて、
建てあげてくださいます。

2019年1月21日月曜日

神は最後まで選び抜かれる



あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
ヨハネの福音書1516


弟子たちに、イエスは言われました。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
 わたしがあなたがたを選び、任命したのです」と。

弟子たちはイエスに
「わたしにつて来なさい」と招かれた時、
網を捨て、
父を置き、
それまでの仕事や過去を捨てて従ってきたのです。

彼らは、自分でイエスを選んでついてきたと思っていました。
でも、イエスは、そうではないと言われたのです。

わたしがあなた方を選んだのですと。

この後、
ペテロをはじめ弟子たちは、
イエスを裏切ってしまいます。

イエス・キリストの一番大切な十字架の時に、
イエスを見捨てて逃げてしまいます。
もし弟子たちが
イエスを選んだのだったら、
そこでおしまいです。

でもイエス・キリストが、弟子たちを選ばれたのです。
だから、たとえ弟子たちが裏切ろうと、逃げ出そうと、
イエスは弟子たちを最後の最後まで選び抜かれ、
復活された後、彼らに会い、再び召し出して、
彼らを通して働きを進められたのです。

同じように、
イエス・キリストは
あなたを、あの人、この人ともに、教会として、
召し出し、選ばれ、
あなたがどんな失敗をしても、
あの人が裏切ったとしても、
それでも、私たちを最後まで選ばれ、
この終わりの時代の大収穫のリバイバルの働きのために、
大きく用いてくださるのです。

いつまでも残る実を豊かに結び残すために神は私たちを選ばれた


それは、あなたがたが行って実を結び、

そのあなたがたの実が残るためであり、

       ヨハネの福音書1516



イエス・キリストが、弟子たちを選ばれ任命されたのは、
彼らが実を結び、その実が残るためでした。

イエスは、弟子たちを二人ずつ遣わされ、
彼らに実を結ばせ、その彼らの実を残されたのです。

同じように、あなたにもなさいます。
あなたを教会とともに遣わされ、
あなたがたの実を必ず結ばせ、あなたがたの実を残されます。

弟子たちは、最初、ぶつかり合い競争していました。
しかしイエスの愛と聖霊の恵みの中で一つにされ、
豊かな実を結び、その実は残りました。

同じように、私たちも争ったりぶつかることがあっても、
主の大きな恵みの中で、
イエス・キリストの十字架の愛と聖霊の助けの中で、
いつまでも残る実を豊かに結ぶのです。

前もって教えてくださるイエス・キリスト


だから、気をつけていなさい。
わたしは、何もかも前もって話しました。

マルコの福音書1323



イエス・キリストは、
終わりの時に、
何が起こるかを弟子たちに前もって話されました。
それは弟子たちが最後まで、惑わされることなく、
固く信仰に立ち続けるためです。

イエスさまは、
私たちを愛しておられるので、
多くの場合、
前もって危険や事故などを教えてくださいます。

聖書のみ言葉や預言、
祈りや思いのうちに語り示してくださいます。

私たちの心を主イエスに向けて聞くならば、
語り教えてくださるのです。

終わりの時代の今、
必要な備えと準備を実際的にも霊的にも、
前もってしておくことはとても重要です。

あなたも主イエスに心を向け、
祈りみことばに触れて語りかけを受けましょう。

この終わりの時代に、
前もって必要な情報を得て、
必要な備えと準備をするために。

キリストのことばは決して滅びることが無い!!!


この天地は滅びます。
しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 マルコの福音書1331

この地上のものの多くは、
いえ、ほとんどのものは、
やがて滅びて消え去っていきます。

どんなに栄華を極めていても、
ソロモンやローマのように、
やがて滅びていくのです。

私たちには、
いつまでも続くように思える、この天と地さえも、
やがて滅びるのです。

イエスは言われました。
「この天地は滅びます。
 しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」
そうなのです。
イエス・キリストが語られたことば、
神のことばは、決して滅びることはないのです。

それはイエス・キリストご自身が、
滅びることのない永遠のお方だからです。
あなたもこの永遠なるお方、
イエス・キリストを信じ、彼に従っていきましょう。

目を覚まして備える


わたしがあなたがたに話していることは、

すべての人に言っているのです。

目をさましていなさい。

     マルコの福音書1337


イエスは弟子たちに、
終わりの時に起こることについて語られましたが、
それは「すべての人に言っているのです」と言われました。

そして「目を覚ましていなさい」と命じられました。

今は、黙示録が近づいている、まさに終わりの時代です。
私たちはイエスが語られていることに耳を傾け、
しっかりと目を覚まして準備をしていましょう。

では具体的には、どうすればいいのでしょうか。
それは
イエス・キリストを信じて、
祈り、
毎日聖書を読み、
語られる神のことばに忠実に従っていくことです。

主イエスを愛してナルドの香油を注いだ女


この女は、自分にできることをしたのです。

         マルコの福音書148


イエスが食卓についておられると、
ひとりの女が、
純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、
そのつぼを割り、イエスの頭に注ぎました。
すると、人々は
「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、
 貧乏な人たちに施しができたのに。」と言って、
その女をきびしく責めたのです。
しかし、イエスはこう言われました。
「そのままにしておきなさい。
 なぜこの人を困らせるのですか。
 わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。
 それで、あなたがたがしたいときは、
 いつでも彼らに良いことをしてやれます。
 しかし、わたしは、
 いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 この女は、自分にできることをしたのです。
 埋葬の用意にと、わたしのからだに、
 前もって油を塗ってくれたのです。
 まことに、あなたがたに告げます。
 世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、
 この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

実は、この時は、
イエス・キリストは十字架にかかる直前でした。
誰も、そのことを知りませんでした。
もちろん、この女も、そんなことは知りませんでした。
でもイエスを心から愛していたこの女は、
損得ではなく、
イエスへの彼女のできる最高の愛を示したのです。
その時、それは
十字架という最も大切なこと(埋葬)のための準備となりました。
そして世界中で福音が語られるところでは、
語られるようになったのです。

損得という地上の計算ではなく、
イエスを愛する愛に生きる時、
永遠の働きに携わることができるのです。

1時間、祈る


「シモン。眠っているのか。
    一時間でも目をさましていることができなかったのか。」
    
マルコの福音書1437



イエスは十字架にかけられる前の日、
ゲツセマネという所に来て、
祈られました。

その時に弟子たちに
「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」と言われ、
ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれました。

イエスは深く恐れもだえ始め、彼らに言われたのです。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
 ここを離れないで、目をさましていなさい。」
それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、
もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
またこう言われました。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。
 どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
 しかし、わたしの願うことではなく、
 あなたのみこころのままを、なさってください。」
それから、イエスが戻って来ると、弟子たちが眠っていたのです。

ペテロに
「シモン。眠っているのか。
 一時間でも目をさましていることができなかったのか。
 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。
 心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

イエス・キリストが十字架の上で、
あなたとわたしへの愛を全うすることができたのは、
この時、祈られたからです。

弟子たちが、
その時逃げ出したのは、
このとき眠っていたからです。

1時間祈る」
イエスが言われたことの言葉は、とても大切です。

1時間祈ることを、
イエスの恵みの中で身につけましょう。
教会と聖霊の助けを借りて・・・

十字架を引き受けたイエス・キリスト


立ちなさい。さあ、行くのです。

見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。

        マルコの福音書1442


イエスが、ゲッセマネで祈られたとき、弟子たちは眠っていました。
イエスが三度目に祈り終えて弟子たちのところに来られたとき、
彼らに「まだ眠って休んでいるのですか。
もう十分です。時が来ました。
見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行くのです。
見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」と言われました。

イエスは、このあと十字架にまっすぐ向かって行かれました。
騒ぐことも取り乱すこともなく、
十字架を引き受け、全うされたのです。
このゲッセマネで、祈り切られたからでした。

一方、弟子たちは、
イエスが捕らえられ十字架にかけられる時、
みんな逃げてしまいました。
それは、この時、彼らが祈れなかったからです。

イエスが恐れもだえて祈られている時、
弟子たちは眠っていたのです。

ただ、この弟子たちが、
ペンテコステの時には祈っていました。
そして聖霊が激しく臨み、彼らは変えられます。

私たちも聖霊により頼み、
目を覚まして祈りましょう。
そのとき、聖霊が私たちに臨み、
私たちも、
主イエスのように、十字架を引き受けて進んでいけるのです。

2019年1月8日火曜日

キリストとともに自由の中を歩む


真理はあなた方を自由にします。

     ヨハネの福音書831


聖書は、神のことばです。
そして御言葉は真理です。
この真理である聖書の御言葉にふれ続ける時、
人は本当の意味で自由になります。

多くの人は、人の言葉や目の前の状況に
心を動揺させたり、振り回されてしまいます。

しかし、真理である神の言葉は、あなたを自由にしてくれます。

またイエス・キリストは言われました。
「わたしは道であり真理である」と。

イエス・キリストを信じ、
この方と共に歩み始めると、
私たちは自由にされていきます。

2019年、
イエス・キリスト共に、自由の中を歩みましょう。
聖書の御言葉にふれ続け、
何ものにもとらわれることなく、自由の中を歩みましょう。

主は選び、呼んでくださる。「主がお入用なのです」と。


「主がお入用なのです。」

   マルコの福音書113


イエス・キリストが
エルサレムに、王の王として入城された時、
人々は「ホザナ、ホザナ」と
大歓声を上げて歓迎しました。
その時、乗って来られたのが
「ロバの子」でした。

まだ誰も乗せたことの無いロバの子を、
わざわざ2人の弟子を使いに出して、
連れて来させたのです。

ロバの持ち主に
「主がお入用なのです。」
そう言って、
主イエスは、
このロバの子を、呼び出され選ばれました。

イエス・キリストは、あなたにも語られます。
「主がお入用なのです」と。

どんなに不十分で、
経験不足で
何もできないと思っていても、
主が呼ばれたら、その招きに答えましょう。

あなたを主が必要とされ、呼んでくださったのです。

主がお入用なのですから。

愛する一人息子を遣わしてくださった父なる神


それは愛する息子であった。

彼は、

『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、

最後にその息子を遣わした。

                                 マルコの福音書126


イエスは、ある時たとえを話されました。
「ある人がぶどう園を造って、農夫たちに貸して、旅に出かけました。
季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、
しもべを農夫たちのところへ遣わしますが、
彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、
何も持たせないで送り帰します。
その後にも、多くのしもべを遣わしますが、
彼らは袋だたきにしたり、殺したりしたのです。

その人は、
『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、
最後にその息子を遣わします。
すると、その農夫たちは
『あれはあと取りだ。
   さあ、あれを殺そうではないか。
  そうすれば、財産はこちらのものだ。』
そう言って、彼をつかまえて殺してしまい、
ぶどう園の外に投げ捨てるのです。

これはイエス・キリストご自身のことを言われたのでした。
父なる神様は、預言者を遣わしてもユダヤ人が悔い改めないので、
最後に愛する一人息子であるイエス・キリストを遣わしたのに、
ユダヤ人は、そして人類は彼を拒み、十字架で殺してしまうのです。

しかし、その十字架が私たち一人一人の救いとなりました。
まさに神の愛の大きさと偉大さです。

今、あなたも私も
父なる神様の一人息子のイエス・キリストを信じて
心に迎えることができます。

その時、永遠の命が与えられ、新しい人生が始まります。

イエス・キリストが礎の石


『家を建てる者たちの見捨てた石、

 それが礎の石となった。

 これは主のなさったことだ。

 私たちの目には、不思議なことである。』

          マルコの福音書1210-11


中東の地域で家を建てる時は、石で家を建てます。
日本では木ですね。
礎の石というのは、その土台となる石、礎石となる石のことです。
家を建てる人が、
これは役に立たない、いらない、と言って捨てた石が、
なくてはならない礎の石になったという意味です。


この礎の石は、イエス・キリストのことを指しています。

人々がイエス・キリストなんかいらないと言って
十字架にかけて殺しましたが、
そのイエス・キリストが、
その十字架が、人々にとって、なくてはならない救いとなったのです。

2019年1月5日土曜日

あなたも主の宮、神殿です。


『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』

マルコの福音書1117


イエスは言われました。
「わたしの家」と、これは当時の宮、今で言えば教会でしようか。
そこで鳩が売り買いされ、両替人かおり、商売がされていました。

イエス・キリストは、
そのことを強盗の巣にしたと言われ、
人々を追い出し、腰掛を倒されました。

こんなイエスの姿は、見たことがありません。
主の宮が汚され毒されていることに、我慢ならなかったのでしょう。

あなたは知っていますか。
イエス・キリストを信じた時、
あなたの内に、
復活されたに主イエスが住んでくださり、
聖霊が宿られます。

あなたは主の宮、主の神殿となったのです。

あなたの心を聖なるもの、
みことばと賛美で満たしましょう。

イエスは喜んで、あなたを聖霊で満たし、
不思議としるしを現し、
アガペーの神の愛で満たしてくださいます。

愛の神である主イエスを信じる。


「神を信じなさい。」

  マルコの福音書1122


主イエスは、言われました。
「神を信じなさい。」と。


あなたは何を信じていますか。
自分ですか。
努力ですか。
お金ですが。
あなたを心配してくださる
信頼できるあの人ですか。

確かに、努力することは
多くのことを乗り越えさせます。
お金があれば助かることが
たくさんあります。
信頼できる人がいると心も安らぎ、
実際、助けられることもあるでしょう。

でも、人には限界があり、
どんなに努力しても
どうにもならないことがあります。
それは仕方がないとあきらめますか。

お金では解決できないことがあります。

どんなに信頼できる人にも限界があります。
悲しいけれど、
裏切られることも起こりうるのです。
そうでなくても、
どうしてあげることもできないことは、
いくらでもあります。

あなたはその時、どうしますか。

不可能のないお方を知っていますか。
あなたを命をかけて愛し、
そのままで愛し、
そのあなたを引き上げたてあげ、
成長させてくださる方を知っていますか。

イエス・キリストは、そういうお方です。
主イエスは、あなたを愛しています。
主イエスは、あなたを愛しておられる神だからです。
この方を信じる時、
あなたに平安と希望、
そして生きる力が与えられます。

主イエスが言われたように、
「神を信じなさい。」

全世界、全宇宙を創造し、
不可能のない方、
愛の方である、
この聖書の神、この方を信じましよう。