2014年10月4日土曜日

聖書は深い慰め。

昨日、私は歩きました。

コンサート会場から教会まで、私はコンサート会場では必要とされていなかったので、少し寂しさを覚えながら歩きました。

ひたすら歩きました。

約一時間半近く、つまり90分、

心地よい疲れでした。

そんな時に聖書を読むと、心の中に聖書の言葉が深い慰めを与えてくれました。

今日はちょっと寄り道です。

聖書のことを少し書いたので、読んでもらえたら嬉しいです。

 

 

 

あなたは、歩いている時、道の途中に生まれつきの盲人がいたら、立ち止まりますか。

その人が困っていたら立ち止まって助けてあげますか?

もしあなたに何か用事があって急いでいたら、それでも立ち止まって、その盲人に手を貸してあげますか。

私なら、もちろんすぐ立ち止まって私の手を差し伸べてあげます。と言いたいのですが・・・

実際は、盲人の前で目を閉じて見ないふりをして、通り過ごしてしまうかもしれません。

あなたはどうでしょう。

 

私たちは自分の予定が壊されない限り、自分の都合に合う限りは、

とても良い人になって困っている人を助けてあげることができます。

 

でも自分の時間や生活に入り込んでくる場合には、

それでも助けるだけの心の余裕は多くの場合持っていません。

 

ところがイエス・キリストは、

道の途中で、生まれつき盲人を見られたとき、

そこに立ち止まり、その盲人のために時間と心をつかって、声をかけられ奇蹟を行われたのです。

 

イエス様は、いつものように弟子たちとともに歩いていました。

どこに行こうとしていたのかは、わかりませんが、その道の途中に一人の生まれつきの盲人がいたのです。

イエス様は立ち止まって、この生まれつきの盲人に目を留め、ことばをかけ、そして彼の人生の中に入っていかれました。

この生まれつきの盲人に関わっていかれたのです。

この生まれつきの盲人は、イエス様に出会って、ここから全く新しい人生が始まるのです。

 

イエス様は決して暇だったわけではありません。

このとき目的もなく、ぶらぶらしていたのでもありません。

いえ、はっきりと目的を持って歩いておられたはずです。

しかし、一人の痛んだ生まれつきの盲人がイエス様の歩みの中で彼の視覚の中に入ってきたとき、

放っておくことは出来ませんでした。

盲人の方からイエス様に向かって、何かを求めたわけではありませんでした。

 

しかしイエス様は立ち止まって、この盲人に声をかけられました。

 

時間をかけ、

心をかけ、

この盲人の目も心も人生もいやされたのです。

 

イエス様はこの盲人を痛みの中に、苦しみの中に、放っておけなかったのです。

 

これがイエス様です。

これが聖書に書かれているイエス・キリストです。

 

あなたにも自分の力では、もうどうすることも出来ないことがあるかもしれません。

追い込まれた状況の中で立ちすくむことがあるかもしれません。

にっちもさっちもいかなくなって、あきらめて座り込んでしまうこともあるでしょう。

 

でも、忘れないで下さい。

 

イエス・キリストは、そのあなたのところに来られるのです。

あなたのために時間を割いて来て下さるのです。

心をかけて愛と命にみちたことばを、あなたにかけて下さるのです。

イエス様のことばには、不可能を打ち破る力と愛があります。

 

そのイエス・キリストのことばが語られる時、

あなたは、全く新しい人生が始まるのです。

追い込まれ、にっちもさっちもいかなくなっているところから、

考えもしなかった勝利と奇蹟が始まるのです。

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